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福島第一原発

 

 

 

 

5日(火) 東日本震災の痕跡 

 連休を利用し、震災跡を見てきた。海外赴任時は、外から眺めていて、外人からは相当心配されたが、俺にはホンとの所はわからなかった。震災後4年、外国での報道と現実はどうだったのかが知りたかった。停炉した福島第一原発による放射能の影響は今でも地域に大変な影響を与えていた。やっと原発付近の国道6号線は今年開通したものの、原発の厳戒態勢はものものしく、当然国道から原発には行けないし、まだ付近の住民はそこに戻って住むことができないため、各家の玄関にはしっかりた鉄柵が立てられており、大勢の警官が、国道を走る車が、原発に行ったり、横道にそれないように、バリケードで警備を固めている。これに反して津波の被害だが、相馬、原町、南相馬市と海岸沿いを走ってみたが、堤防や道路の復興は継続していたが、家屋の倒壊などの津波の爪あとはほとんど見ることはなかった。原町のグリーンパークの道路を横切る端が切断されているのを見ただけだった。その他の津波に流された地域は、元の状態がわからないため、爪あととは見られない。放射能汚染に関しては、大雑把に原発から30km圏で空き家と営業をしていないガソリンスタンドが目に付き始め、15km圏で完全なゴーストタウンになる。なお、原発付近の国道4号だが、車は窓を開けずに運転し、停車禁止。そして、二輪車と徒歩は通行禁止だ。二日にわたり二回もここに着たので少し気味が悪い。まずは、JRの中吊りにあった日立那珂海浜公園にネモフィラ畑を見に行く。渋滞を予測して6時に出たが間に合わなかった。公園近くのインターから駐車場に入れるのに一時間半かかった。でもまあ、ネモフィラは珍しい薄いブルーの繊細な色で美しい。ここはそのほかチューリップ畑やスイセン畑などありなかなかスケールの大きないい公園だ。2時頃出たが、公園内外を暑い中20km近く歩いたことになる。

さて、震災の被災地を目指して、茨城の太平洋側を北上した。日立を過ぎ数キロ行ったところに、100円寿司があったので、入ってみた。乱暴な茨城弁で、品薄のメニューを客に伝えるため、他の客は、「品切れのときは、ネーつんじゃねぇー。申し訳ありません。今切らしてますってゆーんだべ」とこちらも乱暴なことばで怒っていた。奥さんらしき、お店のお上さんはにやーっとして、こちらを見ていた。昼飯を食って更に北上し、福島県側に入り、いわきを越えたあたりだろうか、右写真のように、69km先、二輪、歩行者通行止めとの電子掲示されていた。普通の内容ではないので、少し緊張する。

 

更に北上し、広野町あたりだったろうか、一般の住宅だけでなく、公共施設が閉鎖状態だ。気が付かなかったが、ガソリンスタンドはすでに十数キロも営業していない。これから先はもちらん給油できなかった。(左写真) 更に北上し、福島第一原発があった大熊町に入ると、すべての一般住宅の玄関には厳重に金属製の門が設置され、盗難等が防止される。また、すべての横道はバリケードが張られ、警官が厳重な警備をしており、自由にいろいろな場所に行くこともできない。(右写真) 6号線に沿い、原発の近くまで来たが、ガス欠の心配もあり、いったん戻りガソリンスタンドと宿泊先を目指して西に切れた。

西への道路沿いには、除染土だろうか、道端にかなりの量の黒いシートで覆われたものがおかれていた。こりゃこれから大変だねー。郡山との中間地点には田村町があり、ここでガソリンを入れることが出来た。ついでに明日の相馬、原町方面への宿泊先として宿を探したが、無理だった。ショウガナク、福島市まで戻ることにした。まずは飯坂温泉に行き熱い湯を浴びた。やはり空きのあるホテルはなかったので福島市内まで再度戻り、宿を取った。

翌朝、福島から伊達町を通り、相馬、原町、南相馬、そして双葉町へと今度は6号線を南下し、津波の復興状況を見に行った。まだ復興の途中とはいえ、津波の爪あとをほとんど見ることができないほどに復興は進んでいた。ただほんの少しだが津波の力強さが理解できる構造物が残っていた。(写真右)

最後は、双葉町、大熊町と昨日の経路を逆行した。かすかな放射能を浴びたせいか、何かからだが活性化したような気がする。この時点でお昼近くになっていたので、那須の温泉にでも行こうかと思っていたが、連休戻りの大渋滞がまさに始まりそうな状況だ。一目散に帰ってきたが、自宅に戻ったのは6時近くになっていた。